吉野 What?
国道169号線芦原トンネルを南に抜けると、そこから吉野が始まります。奈良県の60%の面積を占める吉野郡ですが 人口は 奈良県の5%に過ぎません。
しかしその吉野が わが国の 歴史、文学の領域において占める存在感の大きさは、すごいものがあります。
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吉野 Why?
吉野の存在感の大きさはどこから来るのでしょうか?
よきひとのよしとよくみて よしといひし
芳野よくみよ よきひと よく見つ
これは万葉集巻一の天武天皇の御歌ですが、単なる風景賛美の歌ではなく 神霊のこもる吉野の山河への 国讃め歌でもあります。代々の都の 所在地であった 明日香、藤原、平城の南に位置するこの吉野は幽翠の秘境で神霊の宿る聖地と 考えられていました。
吉野は 芳野、与之乃、曳之努とも記され ヨシノ、エシノともいわれ、その意味は 美称としての「よき野」であったらしいです。 |
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三本足のカラス
2002年のサッカーワールドカップのときの日本選手の胸に飾られていた三本足のカラス 有名になりましたが、あれはヤタガラスです。神武天皇が熊野より大和に入られる時道案内をしたという伝説のカラスです。今も同名の酒が作られていますが、吉野の名前が記紀に現れるのはそれが最初です。 |
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吉野の王 井光(いひかり)には しっぽ?
井光は井戸の中からあらわれ「光ありて尾あり」と日本書紀には書いてあります。現在この吉野に住む者としてははなはだ腹立たしい描写でありますが 当時の隔絶された社会にあっては天皇の側から見れば、吉野の王は異形の姿に映じたであろうということです。決して しっぽなどなかったのですが。 |
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鵜飼の元祖もいた。
古事記には 神武天皇が阿太(現在の大淀町と五條市の境界あたり)の吉野川で鵜飼をする鵜飼部に出会って軍事的協力を要請したとある。鵜飼部が皇室の贄部として由緒の古いことは間違いないようです。現在も 吉野川の 鮎の 季節に 魚釣る人それを熱心に橋の上から眺める人を見る時 鵜飼部の末裔を感じざるを得ません。 |
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縄文時代から
大淀町桜ヶ丘に残る縄文遺跡をはじめ阿田、越部、北六田、丹治、上市、宮滝、国巣など吉野川沿岸各地に散在する遺跡から推すと先史時代から吉野には人が住んでいたと思われます。古墳時代には耕作可能面積がわずかであるがため巨大な豪族の出現はなくしたがって 奈良盆地(くんなか)に多くある前方後円墳は見つかっていません。大和川水系に位置する 今木、大岩には くんなかと共通点のある円墳が存在します。 渡来人の移住の記録も日本書紀にあります。 |
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大和川水系
国中(奈良盆地)の河川は すべて亀の瀬を経て大和川となり河内平野を通り大阪湾にそそぐ。吉野では大淀町 今木など一部地域は大和川水系
紀ノ川水系
吉野町、下市町、大淀町など 吉野川沿いの地域 |  |
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潜竜の地としての吉野
古来この吉野の地で再起を期して潜伏した人物は枚挙に暇がありません。
なかでも天武天皇(大海人皇子)は吉野とは関係が深い。兄天智天皇の娘であり我妻の鵜野讃良(うののさらら 後の持統天皇)との 吉野での逃避行。二人の見たであろう吉野川の流れ。また 遠く大台の山なみは 今もほぼ変わらずに見ることができます。
中央政界に志しを得ない人が吉野に身を隠す例は多い。大海人皇子はまさにその第一号でした。壬申の乱の勝利の後 天武天皇は 度々吉野の地を訪れています。 |
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よきひとの よしとよくみて よしといひし
芳野よくみよ よきひと よく見つ
天武天皇なきあと 即位した持統天皇は32回も吉野を訪れています。わずか12歳で父の弟に嫁ぎ 夫と父の争いに巻き込まれて 吉野で過ごした日々の思い出が 彼女をそうさせたのでしょう。 |  |
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大海人皇子
兄、天智天皇の東宮(皇太子)であったが身の危険を感じ、出家して吉野に逃れた。その一年後 天智天皇の息子、大友皇子との壬申の乱後、帝に就いた。(天武天皇) |
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えんのぎょうじゃ
修験道と役行者の歴史 |
修験道は日本古来の山岳信仰が儒教、密教などの影響のもと山岳宗教による呪力を修得した宗教者により形成された宗教です。7〜8世紀頃の役行者を開祖とします。
中世の頃には熊野三山を拠点とし園城寺聖護院を総本山とする本山脈と、吉野金峯山を拠点とし醍醐寺三宝院を総本山とする当山脈の二大教団が形成されました。また出羽三山、四国石槌山、九州英英彦山など地方でも独自の修験集団を形成されました。
1872年(明治5年)の修験道廃止令により修験道は廃止に追い込まれましたが、第二次世界大戦後には本山修験宗、真言宗醍醐派、金峯山修験本宗など修験教団が、あいついで独立をはたしました。
また、修験道は山岳を神仏の世界そのものとしており、山において修行することは、直接神仏に接し、神仏の声を聞き、神仏の境地に近づくものだとされています。
大峯山系では、今もこのような行者の姿を見ることができます。 | |
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えんのぎょうじゃ じんぺんだいぼさつ
山伏(修験者)の元祖 役行者「神変大菩薩」 |
大峯山の開祖であり、修験道の始祖でもある役行者は、なぞに包まれた人物です。
彼に関する史料は「続日本記」のなかで文武天皇3年(699)5月24日の記述に、役君小角を伊豆に流罪とした。小角は葛城山に住んで呪術を使うので有名だったが、からのむらじ韓国連ひろ広たり足に、人々を妖惑しているとざんげん讒言された。世間では「小角は鬼神を使って水を汲んだりまきを採らせ、もし言うことを聞かなかったら呪術を使って縛った」といわれている。と記されています。
その後「役行者本記」などいくつかの役行者にまつわる伝記が残されているとともに、「神変大菩薩」の称号を賜って現在も崇拝されています。
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| 奥駈行 |
実践の宗教といわれる修験道、修験の聖地である大峯山系では、今も「奥駈」と呼ばれる厳しい行が受け継がれています。
吉野山から山上ヶ岳、弥山、八経ヶ岳など2千m近い山々の尾根を這うように続いており、修験道の根本道場と言われ紀伊山地の中で最も深い山路であります。幾日もの間、早朝より深夜まで谷を渡り、崖をよじ登り歩き続ける修験道の中でも、最も厳しい修行として有名です。 |
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